
「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」
と言う文章をみなさんは知っていますか?
高野悦子さんという方が、いまから35年前に書いた文章です。
今日、友達のホームページのMonkey Bananaに成人式とあって、それから連想する言葉を書くのだが、何の躊躇いもなく無意識に「二十歳の原点」と書いていた。
高野悦子さん
昭和24年1月2日生まれ。
立命館大学入学後、学生運動に参加。
44年6月24日未明、鉄道自殺
著者は、高野悦子。昭和44年6月24日、貨物列車へ飛び込み、二十歳の生涯を閉じました。立命館大学の3回生でした。
遺書はなかったが、下宿先には大学ノート十数冊に及ぶ日記が残されていました。
そのページをめくりながら、父親はあふれ出る涙を禁じえなかったといいます。そこには、青春を謳歌しようとしながらも、生きる意味を問い、孤独に震える魂の叫びが、素直な筆致でつづられていたからです。
2年後、この日記をもとに遺稿集『二十歳の原点』が出版されるや、たちまちベストセラーを記録しました。その一部を抜粋します。
2月24日(月)
私には「生きよう」とする衝動、意識化された心の高まりというものがない。これは二十歳となった今までズットもっている感情である。生命の充実感というものを、未だかつてもったことがない。
3月8日
私は今生きているらしいのです。刃物で肉をえぐれば血がでるらしいのです。「生きてる 生きてる 生きてるよ バリケードという腹の中で」という詩がありましたが、悲しいかな私には、その「生きてる」実感がない。
3月16日(日)
京都国際ホテルにウェイトレスとしてアルバイトに行き一つの働く世界を知った。
彼ら彼女らは全く明るい。大声で笑い、話し、楽しさが溢れている。私の知っていた人たちはほとんどが学生で、インテリゲンチャの予備軍のような存在(私もまた)であることを知らされる。彼女たちはあまり本は読んでいないだろう。タクシーの運ちゃんがいっていた。小学校を出て曲折を経ながら運転手をやっている。十九歳の娘と、妻がおり、あと三、四年たてば孫からおじいちゃんと呼ばれるだろうと嬉しげであった。
人間って一体何なのか。生きるってどういうことなのか。生きること生活すること、私はどのように生きていくのか、あるいは死ぬ のか。今、私は毎日毎日広小路で講義を受けるがごとくアルバイトに通い働いているのだが。
3月27日
大学側で卒業を認めてくれなくともよい。あと二年間自分にとってしっかりした何かを掴みたい。
4月6日
なぜ生きているのかって?
そりゃおめえ、働いてメシをくって、くそを放って、生活してるんじゃねえか。働いてりゃよオ、おまんまには困らねエし、仕事の帰りにしょうちゅうでもあおりゃ、それで最高よ。それが生活よ。
自殺をしたら、バイト先では、ヘエあの娘がねエと、ちょっぴり驚かれ、それで二、三日たてば終りさ。かあちゃんやとうちゃんは悲しむ(悲しむ?)かもしれねエな。牧野、彼女はどうだろうな。哲学的にいろいろ考えるかな。
ヒトリデ サビシインダヨ コノハタチノ タバコヲスイ オサケヲノム ミエッパリノ アマエンボーノ オンナノコハ
4月9日
青春を失うと人間は死ぬ。だらだらと惰性で生きていることはない。三十歳になったら自殺を考えてみよう。だが、あと十年生きたとて何になるのか。今の、何の激しさも、情熱ももっていない状態で生きたとてそれが何なのか。とにかく動くことが必要なのだろうが、けれどもどのように動けばよいのか。
4月24日
何故生きていくのだろうか。生に対してどんな未練があるというのか。死ねないのだ。どうして!生きることに何の価値があるというのだ。
高野悦子さんが自殺して30年以上たっていますが、今も、読者が広がっているそうです。人はそこに、自分自身の?二十歳の原点?を見る思いがするのではないでしょうか。
妙に大人ぶったり、人生を諦観したようなポーズをとる前の、正直な自分。見栄を張らない赤裸々な叫び。生きる意味を問う、人間の原点が、そこにはあります。
高野悦子さんが求めたもの、それこそ「人生の目的」なのでは。もし彼女が、多くの知識人が唱えるように、 「とにかく生きることが尊いのだ。生きていけば、きっと何かがつかめる。とにかく生きよう」 と教えられたら、自殺を思いとどまったでしょうか。
高野悦子さんなら、ケラケラ笑って、こう言うでしょう。 「それ、ゴマカシじゃない。だらだらと生きるのはイヤなのよ。私は、どんなに苦しくても、なぜ生きねばならないのか、が知りたいの。アキラメと妥協は、排すべし!」ってね。
高野悦子さんは、人生の目的を知りえず、京都で自殺してしまいました。
なぜ、今この本の事を書いたかって言うと、「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」という言葉が、おれの心の奥底にいまでも忘れず残っていたから。これからも、忘れる事のない言葉だから。
実は、おれはこの本を読んではいない。当時、「スプーン一杯の幸せ」と並んで、書店に置いてあった。両方手に取って、少し読んでみたが、おれは「スプーン一杯の幸せ」を買って来た。
なぜって、死んだ人の日記を読んでもしょうがないと思ったからだ。ただ、あの言葉だけは、こころにぐさっときた。何か、読むのが怖かったのかもしれない。
でも、今だから読める、今だから是非読んでみたい、今だから読まなければいけない一冊である。
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